今日も鰻重がうまい

何についても書いていないし,何についても書いている

社会性、あるいは協調性の大安売り

※この記事には一部新型コロナウィルスに関連した記述がありますが、疫学的な観点から対処法・予防法等を述べたものではありません。

 現代社会、とりわけ日本という同調圧力が強い国で生きていくためには社会性や協調性が必要である。あるいは、社会性や協調性があると他者から認識されることでより生きやすくなる、と言い換えれば大きな異論は無いと思う。しかるべき時間をかけることができれば他者の内面をある程度知ることはそう難しくはないだろうが、そうではない場合、とりわけ顔も知らずすれ違う程度の相手であればどのように相手の社会性や協調性を推し量ることができるだろうか。言い換えれば、どのように自分の社会性、協調性を他者に伝えられるだろうか。もう少し付け加えれば、どうすれば俺には社会性や協調性があるから過剰に反応しなくても大丈夫だぞ、と相手に感じてもらえるだろうか。

 これは個人的な観点であるから、どんな風に他者を観察するかは人それぞれだろうが、(あるいは、全く他者に目を向けない人もいるかもしれない)どういう相手であれば「近寄りたくないやばい奴」と認識しないだろうか。例えば電車に乗っている時、汚らしかったり明らかにおかしい服装をしていないとか、髪が汚くないとか、爪が黒くないとか、変なにおいがしないとか。もう少し難易度を上げると口をひん曲げて化粧をしないとか、大声で商談を始めないとか、混んでいるのに荷物を座席に置いていないとか、考えてみると意外とたくさんのチェックポイントがあることに気がつく。しかし今、まさに新型コロナウィルスがもたらした変化によって、これらの「あの人は社会性、あるいは協調性がなさそうだから距離を置いた方がいいな」ポイントが大きく変わり一つに集約された。それが「マスクをしているかどうか」である。今ならマスクをしているだけで上にあげたポイントは大体通過できる。ポイントアップ大セール実施中である。

 マスクを身につけている(適切な使用方法であるかは一旦置いておいて)だけで、ひとまず他者からの協調性、社会性認定試験をクリアできる。反対にいえば身につけていなければクリアするのは難しい。どんなに綺麗な身なりをしていて、なんなら少しいい匂いがしていたとしてもマスクをしていなければ距離を置いたほうがいいと認識される。かたや多少ボサボサの髪の毛をして、爪が少しくらい黒くたってマスクをしているだけでとりあえずは「無害」くらいの認識はされる。たとえ顎にかけていて口や鼻をカバーしていなかったとしても、密でなく話してもいないような場合であれば一応は大丈夫だ。これはウィルスを持っているかどうかとか、風邪の症状があるかどうかとか、マスクに効果があるかどうかなどといった議論とは関係ない。ここでは「いつでもマスクをつけられますよ」と周囲に働きかけることが重要なのだ。そう言った意味では服装が役割を表すことに似ている。交番にスーツを着た警察官はいないし、コンビニにゴスロリの服を着た店員もいない。そういうレベルの話だ。

 過剰に反応することに疑問を覚えるような場面が日常の中にあることもまた間違いないが、とにかく我々はとりあえずの社会性、協調性を大感謝セール的に身につけることができる方法を知った。マスクは今や物理的にも大感謝セール的な値段で手に入るのだから、実践しない手はないだろう。

腹が痛いとき、そこに神は存在する

 それは突然にやってくる。例え普段から気を遣って氷を抜きにしたり、高島屋で売っているようなハーブティーなんかを急須で淹れたりして労っているつもりでも、胃腸はそんなことを気にしてはくれない。少しでも彼/彼女の機嫌を損ねた日には我々は冷汗を流すことになる。やっとの思いでトイレにたどり着き、腰かけたとしても安心できない。むしろ辛いのはそれからで、一息ついてほっとしたかと思えば、しばらく後には急降下して我々を苦しめる。だけどこんなに辛い経験からだって我々は学ぶことができる。気づくことができる。例えば、アップダウンを繰り返す自分の胃腸と対面しているとき、そこには神が存在していることなど。

 少しでも胃腸の弱さに覚えがある人には当たり前のことだろうが、我々はトイレの便座に腰かけながら、「一体何がいけなかったのだろうか」と考え、そして反省する。そして例え明確な理由が見当たらなかったとしても(見当たらないことの方が多い)、目を瞑り、あるいは一点を見つめながら、時には両手を握り合わせて祈る。この時メタ認知的に自己を俯瞰してみると、疑いもなくそこには神が存在している。我々は神に祈っているのだ。「ごめんなさい、助けてください、許してください...」と一切の雑念なく繰り返し祈った時、あれほど辛かった痛みがすっと引くことがある。やはり神はそこに存在するのだ。そして罪深い我々は同時に、一体自分は何に謝っているのか、そもそもなぜこんなに苦しい思いをしている自分が謝らなければならないのかと腹を立てる。そしてちょっとした反抗心から「このやろう」なんて思ったら最後、さっきまで引いていた痛みは一気にぶり返し、再びいつ終わるかもわからない苦しみを味わうことになる。やはり神はそこに存在したのだ。

 この地獄のような時間から解放されたとき、もはや我々の近くに神は存在しない。あれほど懸命に祈ったことさえすぐに忘れてしまうだろう。しかし今日は忘れるわけにはいかない。この理不尽な苦しみから何か学びとらなければいけない。

 我々が狭い静かな空間で地獄の苦しみを味わっている間、そこに神が存在していることはわかった。しかしそれはなぜだろう?恐らく先週から信仰宗教を仏陀からキリストに変えたという実際的な理由ではなく、もっと概念的なものだろう。少し前に我々が感じていた苦しみはもはや自分ではどうしようもできない、言い換えればコントロール不能なものであり、そんな強大なものに対面した時に我々はその結末を何かに託したのであって、その何かが神だったのだ。つまり神というのはトイレにだけ存在するのではなくて、自分ではどうしようにもできないことに直面した時に出現する。例えばプリンを食べるか、ケーキを食べるか決めかねた時には「どちらにしようかな、天の神様の言う通り...」と神にその選択を託す。どちらが選ばれたとしてもそれは自分のコントロール外の出来事なのだから受け入れる他ない。だからケーキを食べている時に、やっぱりプリンもよかったかなと思ったとしても不満は抱かない。この神の出現は死後の世界を考えるときだって別に大きな違いはない。死というコントロールできないこと、死後の世界という考えたところで解決し得ないものに不安や恐怖を覚えた時、そこに神(ここでは宗教という総体としてのかたちをしている)がやってきて我々に手を差し伸べる。「はい、あなたは徳を積んできたようなのでこちらへどうぞ。そこのあなた、悪いことをしてきた人はあちらですよ」という具合に。そうか、徳を積んでおけば報われるんだな、とやがて我々の中から恐怖や不安が消え、選択可能な世界に目を向けたとき神は背後に姿を隠す。選択可能な世界の中の選択不可能なことに直面したとき、やはり神は再び姿を現して、その選択不能性と共に再び姿を隠す。

 こうして我々はコントロール不能な出来事がもたらす不穏な空気を浄化しながら生きている。極端な例を含んでいたとはいえ、とにかく我々は神の存在を認識した。そしてトイレの神だけは、もう二度と現れる必要がないことを願っている。

オンライン旅はニューノーマルになり得るのか

 OriHimeというものをご存知だろうか。自らを対孤独の研究者として位置づけ日々研究と開発を行う吉藤オリィ氏が開発した分身ロボットだ。

OriHimeがどんなものであるかは調べればすぐに出てくるので詳しい説明はここでは割愛するが、簡単に言えば離れていてもその場に「いる」ことの実現を目指す小型の半人型ロボットだ。これを使えば、例えば離れた所から会議や結婚式、卒業式等に参加したりすることができる。操作する側は離れた所から景色を画面越しに見て、マイクを通して話したり、簡単なジェスチャーをすることもできる。一方でOriHimeが分身として参加している場では、そこに分身としてのOriHimeが存在し、それを通して主体と交流できるという相互交流性が生まれる。ただカメラを付けただけの中継とはここが異なる点であり、そこにカメラが「ある」だけではなく参加者が「いる」ということを可能にする。ここまでの説明ではOriHimeが個人の分身として使われているが、これが実際の対人には劣ると短絡的に考えてはいけない。オンラインだからこその利点もあり、例えば対面が苦手な顧客には受けるかもしれないし、無人レジでは感染対策として安心だという声もある。人には聞いてほしいが対面だと気が引けるというカウンセリング等にも使えるかもしれない。カウンセリングに使った例はまだない(知らないだけかもしれない)が、最近では某県庁が案内役として、モスバーガー無人レジとしてOriHimeを導入したりと、重度障害等によって外出が困難だった人たち、今までサポートを受けるだけのことが多かった人たちが活躍する機会を創出している。

 ところで、コロナ渦のニューノーマルとしてオンライン旅等というものが出てきているらしい。OriHimeも旅する人が持っていってくれさえすればオンラインで旅に参加することができる。前置きが長くなったが、今回はこのオンライン旅について考えたい。個人的には現状オフライン旅の方が好きなので、オンライン旅がどのように進化すればそれでもいいかな、と思えるかをいくつかの側面から考えていきたい。

①費用: オフライン旅でかかるような費用、つまり交通費、宿泊費はかからない。だから格安になって欲しい、というか安くなければあまり魅力的には感じない。現状のオンライン旅がどうなっているかは詳しく知らないが、無駄を省けるという意味では資材さえ揃えてしまえば(あるいはレンタルすることによって)費用は抑えられるから、これはオンライン旅が勝るだろう。

②準備: ズボラな私にとって化粧をしなくていい、髪をセットしなくていい、着替えなくてもいいという観点ではオンライン旅が圧勝する。ただし写真は撮れないので、撮りたい場合には結局おめかししないといけない。家に帰るまでが遠足であるように、旅の醍醐味である(と思っている)余韻に浸れないのはマイナスポイントだ。

③体力: 歩いたり移動したり車を運転しなくてもよいので体力的にはこれもオンライン旅が勝つ。ただしこれに楽しみを見出す場合もあるため一概にいいとは言えない。あるいは山登りなどのアクテビィティをするにあたってはある程度身体を動かして疲労するという要素が重要かもしれない。

④食事: 現地ならではの食べ物を食べたいが家では食べられない。これはオフライン旅が勝つ。ただし事前に自宅で用意できるようなセットが家に届くようなシステムがあれば意外となんとかなるかもしれない。おしゃれな雰囲気を楽しんで、となるとこれは難しいのでオフライン旅に軍配が上がる。

⑤景色: 現状ではオフラインがよい。ただし匂いや何かに触れた時やそよ風の感触が感じられるのであれば、これも意外と何とかなるかもしれない。

⑥出会い: 何となく入った店、宿や美術館での予想できない出会いはオンラインだと難しい気がする。「レディ・プレイヤー1」のように仮想世界でアバター同士が認識し合えるような環境が整えられればここも克服できるかもしれない。

 いくつか考えてみると、現状ではオフライン旅の方が私には魅力的に感じる。どんなに視覚の部分が克服できたとしても五感のその他の要素を補うことができなければオンライン旅で同様に満足することは難しいと思う。もとより、オフライン旅と同様の満足感を求めることがナンセンスであり、オンライン旅はオンライン旅と価値観を転換させる必要も消費者側の宿命としてあるのかもしれない。

夢と現実、そして幻覚と妄想

 朝目が覚めたとき、その時点から少しずつ薄れゆく夢を思い出してみる。すると、今まで見ていた夢がひどく奇妙なものであったことに気づくかもしれない。黒い竜巻は四つも目の前に渦巻いてはいないし、豹柄の着物を着たサイはいないし、お婆ちゃんの踵が取れて中から餡子が見えたりもしない。夢の中では自然なこれらの現象も、一度目を覚ますと現実(と思っているもの)には適応できずに却下される。一方で、時には現実に影響を及ぼすほどにリアリティを帯びた夢を見ることがある。夢で見た芸能人のことが好きになっていたり、誰かが死んだ夢を見た後は悲しくて涙が流れたり、空のポストを開けて漸くあの手紙が夢の産物であることに気がついたり。ここでは夢と現実の境界線が少しだけ曖昧になり、この時私はその曖昧さの程度に応じて混乱することになる。しかしながらどんなに混乱しようとも(大抵の場合は)、落ち着きを取り戻し現実に立ち返ることができる。ではもし、それを許さないほどの曖昧さに直面したとしたらどうすればよいだろうか。

 統合失調症という病気がある。生涯罹患率が1%(知ることからはじめよう みんなのメンタルヘルス厚生労働省ホームページ)のこの疾患の症状に、幻覚や妄想といったものがある。幻覚妄想状態の患者はしばしば「隣の家から電波を流されている」、「誰かに思考を抜き取られる」、「ノアの箱舟の生き残りに選ばれたから行かなければ」等と話す。これらの訴えは単なる夢で片づけられはせず、臨床的診断が下され、薬物療法をはじめとする医学の範囲となる。幻覚や妄想では、現実には起こり得ない(と我々は確信している)ことが現実に起こっている(と彼らは確信している)。ここでは主語を我々と彼ら、こちら側とあちら側というように分けているが、これは便宜的区別に過ぎず、これらが入れ替わる可能性だってもちろんある。

 では、入れ替わった状態を考えてみよう。テレビの全国放送で自分の悪口を報道されていたら、何かよくない誰かの考えが自分の頭の中に植え付けられていたら、何故かわからないけれど自分の食事に毒が盛られていたら。本来なら有り得ないことが起こっていたとしたら、耳を塞ぎ、叫び、走りだしたりすることは適切でさえあるだろう。相手のリアリティを考えることができたとしたら、現実(少なくとも私にとっての現実)では奇異な相手の行動を笑うことはできないだろう。

 夢と現実、そして幻覚と妄想。少し考えてみるとわからなくなってくる。自分が生きるこの世界は本当に現実か?それとも夢か?あるいは、、、

元恋人は死んだ。

中野量太監督で言えば「湯を沸かすほどの熱い愛」、村上春樹的に言えば「僕をひどくややこしい場所に運び込む」ような恋愛について。愛と恋の違いなんていうややこしい区別を語るのは別の機会にしておいて、今日は死んだ元恋人について文章にすることを試みたい。

 一度は愛した恋人、本当に好きだった恋人、ともに生きていくと約束した恋人。どんな表現でも構わないけれど、本当に好きになった相手との別れは、その別れを否認し、嘆き悲しみ、あるいは憎みすらし、そしてゆくゆくはその相手の死をもってして昇華していく。

 ここでいう死とは生物学的に死んでしまうということではない。きっとどこかで生きていようと、たとえまだ近くで生きていようと、自分の中で相手の死が感じられることをいう。かつて私に向けられていたあの笑顔は今や違う場所に向かっているし、二人の思い出は心の中にしかない。このことについて考えれば考えるほど、嘆き悲しめは悲しむほど、死はっきりと感じられる。なぜならそれは、現在と未来が過去と断絶されているからだ。もしかしたらその別れをきっかけに様々なことが変わっているかもしれない。例えばいわゆる自分磨きをしてみたり、住む場所を変えてみたり、趣味嗜好を変えてみたり。しかしながらどんなことが変わろうとも、それは周辺の環境が変化しただけであって、その過去との断絶だけは変えられない。むしろ周辺の環境が変われば変わるほど断絶が変わらない確固たるものであることを痛感させられる。そしてやがてその断絶が相手の死としてゆっくりと現れ、気づいた時にははっきりとした姿で捉えられる。

 元恋人は死んだ。もうあの頃の恋人は存在しないのだ。そして我々は元恋人が死んだ世界で生きていくしかない。