今日も鰻重がうまい

何についても書いていないし,何についても書いている

元恋人は死んだ。

中野量太監督で言えば「湯を沸かすほどの熱い愛」、村上春樹的に言えば「僕をひどくややこしい場所に運び込む」ような恋愛について。愛と恋の違いなんていうややこしい区別を語るのは別の機会にしておいて、今日は死んだ元恋人について文章にすることを試みたい。

 一度は愛した恋人、本当に好きだった恋人、ともに生きていくと約束した恋人。どんな表現でも構わないけれど、本当に好きになった相手との別れは、その別れを否認し、嘆き悲しみ、あるいは憎みすらし、そしてゆくゆくはその相手の死をもってして昇華していく。

 ここでいう死とは生物学的に死んでしまうということではない。きっとどこかで生きていようと、たとえまだ近くで生きていようと、自分の中で相手の死が感じられることをいう。かつて私に向けられていたあの笑顔は今や違う場所に向かっているし、二人の思い出は心の中にしかない。このことについて考えれば考えるほど、嘆き悲しめは悲しむほど、死はっきりと感じられる。なぜならそれは、現在と未来が過去と断絶されているからだ。もしかしたらその別れをきっかけに様々なことが変わっているかもしれない。例えばいわゆる自分磨きをしてみたり、住む場所を変えてみたり、趣味嗜好を変えてみたり。しかしながらどんなことが変わろうとも、それは周辺の環境が変化しただけであって、その過去との断絶だけは変えられない。むしろ周辺の環境が変われば変わるほど断絶が変わらない確固たるものであることを痛感させられる。そしてやがてその断絶が相手の死としてゆっくりと現れ、気づいた時にははっきりとした姿で捉えられる。

 元恋人は死んだ。もうあの頃の恋人は存在しないのだ。そして我々は元恋人が死んだ世界で生きていくしかない。